昭和五十七年六月二十七日 朝の御理解                                                                                                      御理解 第三節                                  「天地金乃神と申す事は天地の間に氏子居っておかげを知らず神  仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所其理知らず方角日柄ばかり見て  無礼致し前々の巡り合わせで難を受け居る今般生神金光大神を  差向け願ふ氏子におかげを授け理解申して聞かせ末々繁昌致す  事氏子ありての神神ありての氏子上下立つように致す」                                                               このみ教えは、大変な内容をもったみ教えであり御理解だと思います。天地金乃神と申す事は、と、こう仰っておられますが、その、天地金乃神様のおかげを知らずに、難儀をしておる様々な宗教がある。その宗教も、天地金乃神様を知らんところから、あられもない行をしたり、または、打ち込んでいけば打ち込んでいくだけむつかしうなり、ま、いうならば、因縁とか輪廻とか原罪、いわゆる罪、罪の、と、いうふうに宗教を見てまいりますと、も、助かりようがないわけですね。因縁とか輪廻とか、とか、と、いう事になったらね、いわゆる、その、ま、この世を一生十字架を背負うて、ま、あの世では天国にいく、と、説くキリスト教であっても、兎に角、この世は、いわば罪の為に一生修行し続けなければならない、と、いうふうに説くのですから、も、助かりようがない。それは、天地金乃神のおかげを知らんから、そういう事になってくるわけです。  昨日、一昨日でしたか、福岡の川上さんが、あのように毎日日参されます。その道中で、ま、沢山な人にお話を、丁度十年間、日参されますからね、その間には沢山な、行きもどりお話をして、また川上さんの話を聞いてたすかり、川上さんのお導きで御信心を頂かれる、と、いったような方達もだんだん出来てくる。それで、川上さんが見えられると、また、あなたのお話を聞ける、と言うて、その、ま、喜んで、その、側に見えるというような方達まだ、ま、川上さんフアンが段々出来てくるわけでけれども、その、川上さんのお導きでここに以前、昨日、一昨日聞いたんです。 合楽に九ケ月参った。それ以前は、某関係のお教会にお参りして、現在では、某教会にお参りしておられるという方と、たまたま電車の中で一緒になった。そして、その方が言われるのに、兎に角、合楽教会はぜいたくです。お金がかかるとこういうわけなんです、ね。某教会やっったら百円のお初穂で参られるとですよ、と、いったような事からだったそうです。して、どんなお話を頂かれますか、ち、言うて、言うたら、お話はありません。月次祭に参ると話されますけれども、ま、先代のお話をなさるのです。と、言うか、と、思うと、時々には川上さん、合楽の最近の御理解はどうですか、と言うて、ま、寄って来て、御本を貸したり、または読んだりなさる、と言うのです。私あ、その川上さんの、合楽は金がかかる、とか、合楽はぜいたくだとか、と、そういう事を甘木あたりは、ま、それの反対だ、と、こういうわけなんです。
 その事を私、だまって聞いておりましたら、神様からお知らせを頂くのが、椿の花、を頂くんです。次には、その、かっていし、ち、私どんは言いよったが、ね。その、椿の実をかたいし、とか、何とか言うでしょ。かっていし、と、ね、と、御心眼に頂いたんです。ははあ、なるほど合楽は、椿の花、的な、木遍に春と、こ、書いてあるが、人間が人間らしゅう生きる行き方、とか、これは昨日の研修の時にも、その御理解が出たんですけれども、もう、以前に頂いた御理解の中に「桃の花鯉すむ池や薄にごり」、と言う。皆さんも覚えとられるでしょうか、そんな御理解頂いた事があります。
昨日の御理解から、こ、引用すると、いうなら、どんなに清い道であっても、波立っておる浅い谷川には、魚が住まないように、やっぱり薄にごりであっても、ゆったりとした池のようなところに大きな、ま、鯉すむ、というわけなんですよね。これは、いま、合楽で言われる人間的生き方というものが、が、おかげを、むしろ受けられるんだ、と、人間が幸せになる事の為には、の、宗教だ、という事を端的に表現した、私はみ教えであったと思うんです、ね。いわゆる、心が春である、生々とね。いわゆる生みなす力をもっておる、と言うてもいいでしょうね。
ここの天地岩に、いわゆる、ここに参りました時から、も、十五年間あそこに、ね、岩の中から、こう椿の木が芽を出して、もう枯れるだろうか、と思うと、やっぱり、その、春になると、こ、芽を出して葉が四つ五つ、こう出るんですね。これも、ま、合楽の一つのシンボルのようなもの、と思うんですね。そういう神様、天地が、そう示して下さると思うんですね。そすと、今度は、甘木の場合は、その実であるかっていしのようなもんだ、と、固石、固い。
甘木の先生は、大変に厳しいお方であったそうですが。例えば、修行生の中に、この、恋愛問題なんかが起こったら、破門だったそうですね。いわゆる、昔流に、恋は御家の御法度、と言ったような行き方を取られたわけ。非常に厳格で厳しい、ね。
合楽は、それとは、そんな乱らな事を許される筈はありませんけれども、ね、恋愛至上主義とでも申しましょうか、神様のおかげでと言うのです。ね。まあ、大体、昨日、修行生の方にその事を、兎に角、合楽は、やはり華やかだ、と、華やいでおる、なんとはなしにね。おかげもだから華やかです。ね。けれども、その内容としては皆さんも、なら、御承知のように、「梅の薫りを桜に持たせしだれ柳にさかせたい」、という、その、合楽の理想像というかね、本当に誰だって、桜の花をばっと咲いたような、華やかなおかげを頂き・・・、そんなものは頂こごつない、という者は一人もない、と思う。本当は頂きたい、ためには、その内容として、ね、梅の辛抱力というものが、内容になからなきゃいけない。柳の、いうならば、風にさかわらない素直さ、という素直さ、と、いうなら、信心辛抱とあって、ま、いうなら、その個性というか、合楽の性格的な、いわゆる、桜の花のような華やかな、賑やかな、ま、性格が、こ、三つが一諸になって御比礼を頂いておるのが、私、合楽だ、と思うのです。ね。ま、そういうとこだから、ちょっと、見方では、成程、合楽は贅沢だ、と言う、まわけでしょ。ま、それを、川上さん聞かれて、いろいろお話をされると、まあ、わかられるけども、まあ、あの人と話しよると討論になるから、この頃は、もう、お話をしない事にしています。向こうから求められた時だけ、お話をする事にしております、というような、ま、お話でしたが、今、私が頂きますように、椿の花であり、甘木は固い、固い石(意志)という事でしょうね。
いうなら、固かばっかり、と言うてもいいかも知れません。だから或る先生に、私が甘木の大変、ま、詳しい事ですから、甘木と合楽の性格はどんなふうですか、と、兎に角、合楽に来ると、兎に角、これだけ沢山のおられる方達が、みんな本当に内々。 これは、もう、御信者さん方の雰囲気の中にも、そういう雰囲気が非常に強い。だから、非常に陽気である。甘木の場合は、なんか行って、もう何日かおると、ま、それこそ私の方の、今の御祈念をしなした光昭があちらで信心研修がありましてね、二日間か、泊まりがけで、丁度寒中でした。四、五人行って帰ってきてから、もう、甘木で風邪引いて帰って来た、と。風邪引いて帰ったわけでもないけれども、も兎に角、一部屋一部屋に、第一、その、火鉢も入ってない、と言うんですね。も、兎に角、修行のお教会だ、と。修行生の部屋に暖房でもある事では、と、いうのが、ま、皆さんも御承知のように、まいうならば、始末倹約のお教会である。            合楽は反対にね、勿論それが、粗雑の事ではいけませんけれども 必要な事であるならば、も、人が何と言うても、ね、なら、例えば調度品なら調度品でもおかげ頂きたいならば、なら、ま、十円の調度品よりも一万円の調度品の方がよい、と、言うのが私の頂き方なんです。ね。ですから、そういうふうに、こ、段々教会の性格が出てくるわけでしょうけれども、ね、煎じ詰めてみるとです、ね、椿の花、というのが、ま、合楽の信心を現す。かっていし、固い石、 という固い心、というか、ね、が、甘木の信心。   
甘木に参りましたら、なにか厳しいもの、なにか陰気なものを感ずる。
合楽は、それとは反対に陽気で賑やかなものを感ずる。だから、陰も陽もあっていいと思うんです。天地金乃神と申す事は、その陰陽があって初めて天地なんです。ですから、それは、そこそこの一つの流儀ですから、問題は、一が助かる事さえできれば、と、言う働きが、天地金乃神様の、その頂き方のところから生まれてくるのです、ね。天地金乃神と申す事は、と、ね。
それを、例えば、因縁の為に苦しむんだ、罪の為に、と、いうのぢゃなくて、例え、よし、罪はあっても詫びれば許してやりたいのが親心、と、言われるのが天地金乃神である、ね。
いままで私共は、宗教的観念というか、から、例えば、そういう事は御無礼になるとか、そういう事は不潔だとか、ね。そういう事は信心しょってからと、私共もそう思ってきて、お詫びをするような気持ちであったけれども、最近の合楽ではお詫びがなくなった、と言われる位ですから、そう思っておった事に対しても、御の字をつけて御礼を申し上げる、というふうに変わってきたわけです。
だから、天地金乃神様の、という方は、そういう方なんです。あヽしてはならん、こうしてはならん、というような小さい事に、こせこせなさる神様ではないのです。
人間が、それこそ喜び、歓喜な世界に住む事こそ、喜んで下さる神様なんです。それを、自分は因縁の為に、罪深い為に、一生、十字架をからわなならん。
因縁の為に苦しみぬいておる、といったようなものを見て、天地金乃神様は、お喜びにはならない、というものが、天地金乃神なんです。天地金乃神と申す事は、そういう事なんです。だから、お心が段々深く、わかればわかる程、いうならば、合楽理念に基づくところの行き方になってまいりますと、いや、これはね、ま、いうならば、宗教革命がなされなければ人間の助かりにはつながらない、と言う事が言えると思うでう。ね、苦しいから宗教に求めた、求めたけれども、そこには、助かる手立ては説いてなかった、とこういう、ね。ま、それが宗教だ、と、こ、思い込んでしまって、さ、罪だ、因縁だ、という中に入って落ち込んでしまう。
これで・・・、いわゆる、天地金乃神様のおかげを知らんから、そういう事になってるんですから、ここの所に、なら、全宗教がですね、一つの本当に革命的な改まり、いうなら、おかげというものは和賀心にあるんだ、と。例えば、どんなに罪深いものであっても、例えば、お粗末であるというならば、御無礼であるというならば、天地の大恩を知らん、という事なんだ、と。ここには、ま、せまい範囲でしか書いてありませんけれども、理屈はおおきいんですね。神仏の宮寺、ね、の、例えば、宅でもみんな神の地所だ、とこう。日柄方位ばかり見て、と、いうふうにおっしゃっておられますね。天地の中に、人間を幸せにせずにおかん、という。いわゆる、神愛だけしかないのに、ね、あれを食べてはならん、これを飲んではならん、ね、こちらには方角がよいの悪いの、自分の物でもないものを自分の物のように思って、これは、宮寺の宅もみんな天地金乃神の地所だぞ、と、教えておられるわけです。ですから、そういう、自分のものでもないものを、自分の物と思ったり、または、天地にすみがねをつけるような、それが、前々の巡りで難を受けおる、とおっしゃるです、ね。私共が思っておるお粗末御無礼とは、全然意味が違うのです。も、私はあの、この御理解三節はここんところが一番大切思うんです。ね。
どういう事が因縁になって、どういう事が巡りになってどういう事が、その難儀というものを形成しておるか、と、それは私共が、天地の大恩を知らぬからである。
天地の親神様の心を知らんからである。だから、自分の物でもないものを、自分の物の用に思ったり、または、天地の中にすみがねを   つけるように、ね、方角がよいの悪いの、と言った、ま、迷信的な 事は全部そこの中に入ってくるわけでしょう、ね。そういう事ぢゃない、も、おおらかに、ね。天地の親神様の大恩がわかれば、ね、 火の行、水の行、と言ったような、一定の人だけしかできないような、それとても、実際は出来ない、本当は出来ない修行に取り組むとか、取り組ませると言ったようなものではなくて、もう、どこまでも修行は、合楽で言われる「信行 心行 家業の行」による他はない。
人間の真の助かりはここにあるんだ、と。まあ、教祖金光大神は喝破しておられるのです。ですから、これは本当の意味でね、血を流しての革命ぢゃなくて、ね、本当の有難い意味においての、私は、宗教革命がなされなければ、いわゆる、人間の本当の助かりにはならない、と思うです。そういう大変な宗教です。その、なら、金光教の中にも甘木があり合楽がある、と、いう事になるわけですね。甘木の親先生は、ね、もう、タオルでも、こ、しぼり切る、というような事はなさらなかった。弱る。
道を歩いておられても、しばらく行かれると、履物を、こ、履き替えられた。かたかたへりしちゃいかんから。
電車に乗られても、ね、いうならば、丁度真ン中ごろに行かなん時には手前の方の駅で、少しは遠かっても手前の駅で降りて歩いておい出られた、という事です、ね。
例えば、その当時は汽車が三等とか、ま、二等とかでしたよね、おそらく二等以外の安い、あれは、なら、それでも乗られたぢゃろうと、思うですね、甘木は。
ところが、久留米の場合は、これは道の教師としての対面というものを考えられた。これは、そういう話が残っております。ある時に帽子を買いにおいでられた、一番上等を見せてくれ、と言うて、一番上等の山高帽を買われた、という事です。いわゆる、道の教師としての、ま、権威、甘木の親先生の場合は、神様の御物であるからお金でもそれこそ割って使うようになさった。だから、どこもそのまあ、愛敬精神とでもいう、そこんところは理屈は同じ。いわゆる合楽が椿の花なら甘木はかっていしだ、と。けども。これを、ならいよいよ絞って油にする、という事になると同じでしょうが、そこまで行けば同じです。もういっちょ話をすすめて行くと、甘木でも合楽でも同じ事になるんです、ね。
信心、いわゆる、髪の油につけるわけですね、髪油ができるわけですから、ね、まあだ、あります。それこそ、霊関係だけをいうて、どんどん人が助かっとる、と、いうとこもあります。それは、もう、すさまじい。なら、表行をしたり、御祈念力によって人が助かっておるという所もあります。ね。生神金光大神天地金乃神を唱えて、そこに人が助かっておる、集まっておるのですから、だから、天地金乃神様の、も、その内容の中には、そういうものがあるのです。これはいけない、これは本当ぢゃない、と、いう事はない、と、いう事。まあだ、いうならば、も、大変な大きな神様なんですけれども、やっぱ、そこそこの一つの個性、とか流儀がありましてね。なら、同じこの近所におって、甘木と合楽が花と実のようにちがうように、ね。結局、煎じ詰めてまいりますと、油になるのです。ね。私は、今日は天地金乃神ともうす事は、と、こうのっけから言うておられる。天地金乃神様という方は、こういう大きな神様である、と、言う事、ね。その神様の大恩を説き明かし、神の大恩を知れば無事健康で子孫も続き、と、仰せられれるような神の大恩を小さい所においておる、止まっておる、ね。大きな見地でいうならば、行けばおかげも大きくなってくる。
金光大神の信心というのは、そうした、いうならば、お互い信奉者がね、天地金乃神様をこまかく(小さく)してしまっておる、と、いったようなむきもあります。やっぱり、あヽしちゃならん、こうだ、と、いったふうな事は、天地金乃神様を小さくしてしまうのです。ね。
天地金乃神様は、いよいよ偉大な大きな、しかも、最後にありますように、その神様と本当にあいよかけよ。それを合楽では、もういっちょ、その向こうに合楽しあえる、という、ね。ま、いうならば天地との調和というもう一つの向こうに、天地との交流、ね。
合楽しあえれる、神様と氏子とが喜びあえれる世界で、初めてあいよかけよの精神というのは、具体的に言うと、でならなければ生みなされるおかげになってこない、と思うです。ね。そういうおかげを頂かせてもらってるのが、今日の合楽です。ね。
そういうところを、天地金乃神と申す事はという内容を、合楽は、いよいよ深く広く、ま、説いておるというふうに思うんです。いうならば、天地金乃神様は、も、限りなく大きな神様として頂いておるのです。ね。
ですから、そこに自由無碍な世界、自由無碍な、また,おかげの世界も約束されるわけですね。あれがお粗末、これが御無礼といったような事は、大した事はないけれどもね、ただ天地に対するところの、ね、前々の巡りで難を受けおる、という難儀の元というのは、天地に対する天地のお心がわからんから、ね、天地の大恩を知らんから、そういう事になるのです。
昨日その、川上さんのお話をここで聞かしてもろうてです、ね、甘木流、合楽流、それは、ま、御信者の中でもやっぱ甘木がよか、百円でまいられるという人は、それでいいのですし、ね。合楽はぜいたくだと、けれども、合楽に参ると、それこそ天地の心を日々いつもいただける、ね。どちらが本当と言う事はないけれども、これはいうならば、私の、ま、類は類をもって集まるというか、私に部類した人達が合楽には、みんな集まってきておるんだと。こう思うですね。だから、どうしても合楽的一つの信心と、合楽的な、今、合楽で現れておるおかげを、皆さんの上にも表してもらいたいと、思います。
天地金乃神と申す事は、と仰せられる内容を今日は、これでも少し聞いていただいただけなんですよ。まだ、天地金乃神と申す事は、となったら、実をいうたら大変な説明がいるでしょうね。けども、これは合楽風に頂き止めるところを、聞いて頂いたんです。
                     「 どうぞ 」